「とにかくオープンに、そして公明正大が第一」。
当工業団地の完成直後から今日まで、事務局としてその発展を共にした半生。繰り返し味わった喜びややりがい、時には辛辣や苦悩も。そんなベテランが組合運営の鉄則を言葉にすると、こうなる。
組合への就職は昭和四三年。団地完成の翌年である。大学卒業後、「部長くらいになればいい」程度の考えで、遠縁の親戚が経営する企業に就職。上昇志向の考えはあまりなかった、と振り返る。
二五歳で同社が経営難に陥り、やむなく退職。組合の紹介を受けたのは、そんな時だった。
「そりゃ、考えたよ。組合の知識はサッパリだったから」。
同組合は、県東部では富士宮鉄工団地についで二番目の団地組合だったこともあり、全てに充分な事例がない時代。団地運営や高度化制度の研究に明け暮れた。
「返済事務の管理が仕事だった。自慢でもないんだけど、過去、一回たりとも滞納や繰り上げ返済はなかった」。同組合は本県の高度化団地の魁として、見事に模範的立場を全うした。
「当初、組合員はみな”父親“世代。でも、ひるまず訴え続けた。高度化資金は組合全体の借金だから、滞納は会社の問題だけでなく、組合の信用に関わることだと」。
二六歳で事務局長、三三歳で専務理事に就任。オイルショックや円高デフレ不況、平成不況など幾多の試練に直面した時、頼れる黒子役として組合員を支えてきた。
職員協会では、東部・県とそれぞれの会長職を務めあげた。
栗田勇を愛読。道元、最澄など先人の生き方をたどり、じっくりとその思索にふれる。六一歳。
|