県内に組合職員の数多しといえども、一ヶ月もの間、時には寝具持参で中央会事務所に通い詰めた経験をもつのは、この人ぐらいか。
大学を卒業した昭和五六年、ホテル関連業界に就職。そこでは結婚式等の司会を任されるなど、やりがいも感じた。しかし、仕事が慣れ始めた頃、自身の可能性を別の何かにぶつけてみたくなった。
―工業団地事務局の求人募集。昭和五八年四月の採用が決まり、当初の二年間は、磐田商工会議所に籍を置いた。
「日課は高度化実施計画書の作。ヤル気はあったが、高度化制度や会計・税務、全てが初めての経験。分からない以上、自分から相手に飛び込んで教えてもらうしかないでしょ?」。中央会浜松事務所への日参はこうして始まった。また、二○代の頃は組合の金融実務を現場で学ぼうと、一週間、朝から晩まで金融機関の営業担当者に密着した経験ももつ。
「組合員のオアシスにしたい」。これが、思い描く事務局像である。確かに事務所には、多くの組合員や二世たちが気安く足を運ぶ。「仕事の話ばかりじゃない。むしろ、遊びや家族とかの身近な話題。でもそこで打ち解けないと、経営相談や本音の部分がでてこない」。
組合員が中国に進出したと思えば語学を学び、専門分野の相談ならばその道のプロを尋ね教えを乞う。こうした行動力が持ち味だが、組合員を前にすれば、じっくりと耳を傾け、慌てない。「医者が出すような処方箋が、常にあるとは限らない。議論を深めながら、よりベターな答えを導いていければ」。
職員協会では県会長、西部支部長歴任。笑顔に隠された細やかな配慮で組合職員相互の融和に努める。
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