“環境”と対峙した三十年を想う
今は昔の物語となってしまった感も強いが、三十年前、世界の驚異と言われた我が国経済の超高度成長のツケは、公害となって日本列島を覆った。
静岡県では百人一首で有名な田子浦港をヘドロで埋め尽くし、製紙工場に乱入しようとするデモ隊と警察が激突する最悪の事態をも惹起した。私は現地に幾度となく足を運び、事態の深刻さを肌で痛いほど感じ、何とかしなければ企業の存在(有用性)そのものが否定される“一億国民・企業総敵視現象”にコトバを失った。
そこで中小企業自身として何か打つ手はないものか、種々検討をした結果、全国で初めての公害防止事業を起し、企業自らが公害防止に真摯に取り組むことを痛感し、産業界・大学・研究機関それに行政も指導的立場で参画してもらい、昭和四八年「静岡県産業公害防止協会」を設立した。
あれから今年は三十周年を迎えることになり、その間には産業界はもとより、政治社会の面でも、激動の大変化があった。そして各界の懸命な努力の結果、公害防止から環境保全へと質的な変化もあり、そうした時代的要請に応えて、昭和五七年(社)静岡県環境資源協会へと名称変更をするとともに環境、リサイクルへと仕事の重心を移行しつつ県レベルでは全国に例のない組織として活動を続けている。
常勤者六名ほどの小じんまりとした公益法人ではあるが、守備範囲も広範になり、例えば問題となった国体会場の春野町のクレー射撃場の鉛害についても、静岡県からその対応計画の策定委託を受けるなど県や市町村からの要望にも着実に対応し、評価を受けている。
時代は、持続可能な社会の構築を絶対条件として求めている。私共は、あらゆる面からリサイクルを中心に、新エネルギーの活用など、社会や生活形態の変化や求めに柔軟に対応しつつ、循環型社会の構築に想いも新たに、三十周年を意義付けている。
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