特別寄稿




▲浮島工業団地・全景。
 団地が立地している浮島沼を詠んだ
 和歌も多く残されている。

 平安の末から鎌倉にかけての歌人西行法師の「いつとなき思いは富士の煙にて、まとろむほとや浮島ヶ原」とあるを知り、およそ八百六十年前には煙たなびく富士山と、今尚、沼沢池である浮島の地名の古さを実感した次第である。
 最近、東海地震と共に富士山噴火説も巷間心配されてはいるが、調べてみると富士山噴火については、歴史に残る記録として、七八一年(天応一年)・八〇〇年(延暦一九年)・八六四年(貞観六年)・一〇八三年(永保三年)と続いた。以来、四百年以上鳴りを潜めていたが、十六世紀にごく小規模噴火が二回程あったと伝えられているが、一七〇七年(宝永四年)大規模な噴火がおき、その後三百年近く沈黙している。

驚かされる当時の健脚ぶり

 往時、いったい街道の通行にどれ位の日かずを要したか調べてみると、通常晴天続きならば成人男子が一日十里で十三日を要し、女子は八里・十五日〜十六日程で歩いたと云う。勿論、天候の都合で途中天竜や大井川の川止めもあり(大井川最長二十八日とある)、計算どおりにはならないが、当時の健脚振りにおどろかされる。スピードの早い飛脚は、走り継いで六十時間で走ったという。
 一八八九年、即ち明治二十二年東京・下関間の鉄道が全線開通するまでは、輸送の中心は船であり、江戸時代には京・大阪の上方を結ぶ交通は、一六一九年(元和五年)に菱垣回船が物資の輸送を始めたものの、旅行者は、熊野灘や遠州灘など遭難の危険のある太平洋を避けて、陸路に頼り、馬や駕籠を利用するより、大方は二本の脚で歩くことが重要な交通手段であり、往復するだけで約一ヶ月、現在新幹線で往復五時間強、自動車でも十時間余、僅か百十五年前を想像するだけで往時との往還の差を感じ得ない。
 唄にもあるように「お江戸日本橋七つ立ち」つまり当時の旅の朝、思ったよりも早く、午前四時に弁当持参で出発し、十里余歩いて暗くなって目的の宿に到着したに違いない。
 東海道の往来が盛んになったのは勿論十八世紀に入ってからであり、ようやく各宿場で一般の旅人に宿が食事や湯を提供するようになったが、「木賃宿」の言葉が現存しているように、干飯・米は持参したとはあるが、おそらく宿近くの農家や商家で野菜や魚と一緒に買い求め、宿で鍋釜を借りて煮炊きをしたのであり、テレビで見るように宿に着くと直ぐ湯に入り、夕食が運ばれてくるのは、もっと後のことであった。
 だいたい日本人が朝・昼・晩・三食になったのは、そんなに古い事ではなく、室町期の末に定着したらしい。ここで最近テレビにて知ったのだが、当時一日十里歩くには計算によると約二七七〇カロリーが必要となり、宿二食・弁当(握り飯)併せても、二二〇〇カロリーと五七〇カロリー程、不足することになり、途中の茶屋で饅頭なり、団子、土地土地の名物で補ったに違いない。往時、副食物でこれだけのカロリーの大半を摂取することは恐らく不可能であり、米飯が主体で一汁三采それに干し鰯あれば、上出来、一日、一升飯の語源どおり、蛋白質は僅かで澱粉類の摂取が大半で、この栄養補給はつい最近まで連綿として続いていた。
 文献によれば、宿場と宿場の距離は二里十三町(約九q)。その間には松並木があり、一里ごとに目印に、一里塚が置かれた。
 十七世紀〜十九世紀にかけての街道の様子は、道中記や紀行文に多く残ってはいるが、外国人が冷静且つ克明に見聞して本国に報告した記録が、当時の我国における庶民の生活や文化、政治にいたるまで、客観的に記している。


中小企業静岡(2002年 11月号 No.588)