特別寄稿

東海道四百年についての考察

〜その歴史と先人たちの足跡を辿って〜

▲東海道五十三次:原・朝之富士



 昨年のことになるが、東海道由比の宿本陣跡にある広重美術館で東海道五十三次の版画を拝見し、館員に江戸から京都までの里数を聞いてみたものの、学芸員ではないので要領を得ず自分で文献を漁って調べてみた。
 資料をひも解くうちに、江戸の文化や生活だけでなく、時代の移り変わりを刻んできた東海道の歴史と現代にも活きる先人たちの足跡を改めて辿ることともなった。
 以下、その要所だけを記述させていただいた。

富士市浮島工業団地協同組合
理事長  
杉山 清



県内には二十二の宿場が

 慶長五年(一六〇〇年)、関が原合戦が終り、翌年より京都から江戸までの街道と宿場の整備を行い伝馬の制度を定め、三条大橋から江戸日本橋の間全長、各説もあるが百二十六里六町一間(約五百キロメートル)の間、品川から大津までに宿場五十三、箱根・新居に関所が設けられ、現在の東海道が開道し、その後およそ二十年以上たった元和・寛永の頃、東海道五十三次の宿場が追々完成された。
 因みに、伊豆、駿河、遠江の国で形成される静岡県は箱根を越えた三島宿から遠州新居宿まで二十二の宿場があり、富士川、安倍川、大井川、天竜川の難所もあり、東海道五十三宿のうち四十二%を占めている。
 東海道は古代から五畿・七道の一つであり、大和朝廷の軍事力供給通路として重きをなしており、延喜式(九〇八年)では官途として、伊勢の鈴鹿駅より、常陸の雄薩(おかき)駅まで五十五駅が置かれたという。
 万葉集の中には、徴兵された名も無き防人(兵士)の故郷や、妻・家族を偲んで詠んだ哀歌が多く残っているし、当時もかなりの往還があり、富士山や富士川、かの有名な山部赤人の「田子の浦ゆ」の古歌、そして筆者の会社が所属する浮島工業団地が立地している浮島沼を詠んだ和歌も数多く残されている。


中小企業静岡(2002年 11月号 No.588)