特別寄稿



東海道と外国人

 天文十二年(一五四三年)、ポルトガル人が種子島に上陸し鉄砲が伝来され、我が国の西洋との交流が始まり、以後続々とヨーロッパから多くの人々が貿易や布教を目的に来日した。
 当時の日本は極東における国際交流の最終地であったに違いない。然しながらやがて、キリスト教の教義に畏怖の念をいだいた幕府は「鎖国」として知られる厳しい対外規制によって、日本人の海外渡航と外国人の入国を禁止した。
 しかし、まったく国を鎖したわけではなく、日本国内の政治情勢の変化に機敏に対応を講じたオランダ東印度会社は長崎・出島に日本支店として、また、日蘭貿易の拠点としてオランダ商館を置き、館員を常駐させて、唯一貿易の出来る国となったのである。
 オランダ商館長(カピタン)は貿易を独占し巨大な利益を得る見返りとして、毎年(後に四年に一度)江戸に出府して、西洋の事情を伝え、将軍に拝謁することが義務づけられており、また後述する朝鮮通信使は一六〇七年から一八一一年まで十回にわたって、陸路、東海道を江戸に下っている。
 東海道について、最初の記述は慶長九年(一六〇四年)、江戸から長崎に向かったスペインの臨時総督ドン・ロドリゴ・ビべロの記録では、道路の両側には松の並木があり快適な陰を作り、また里数を尋ねる必要もなく道は平坦にして街道及家屋の清潔なるは、世界の何れの国に見ることなきこと確実なり、と褒めちぎり、快適な旅が出来たと本国に報告している。思うに僅か開道五年程で松並木が日陰を作るほど成長する筈はなく、以前から植樹されていた並木に植え足し整備したのであろう。

続いていた諸外国との交流

 江戸幕府はキリスト教の禁止と共に、貿易の統制・管理と、日本人の海外往来の禁止を実行し、一六四一年(寛永十八年)オランダ人のみ長崎・「出島」に於いて貿易の独占を許し、爾来一八五四年(安政一年)ペリー艦隊来航によって、日米和親条約が調印されるまで、二百余年間続いた。
 扱い品目は生糸が主で代金決済は豊富な銀や陶磁器・漆器をもって充て、中国をも含む総ての外国船貿易が長崎に限定されるようになった。
 こうした状況のもと、豊臣秀吉による朝鮮侵攻以降一六三五年、朝鮮との関係も修複され、翌年正規の使節(朝鮮通信使)が来日し、一八一一年(文化八年対馬止まり)まで、十二回(第二回・京都止まり)に及び、前後十回は江戸まで赴き、将軍の襲職を祝い、その一行は四、五百人に及んだと、文献にあるほどで善隣外交により友好関係が改善されている。
 先般、サッカーのワールドカップの日韓共同開催もあり、一衣帯水の国であり、当然の事でもあり、盛んに文化交流も行われたに違いない。
 また、島津氏の支配下にあった琉球も一六三四年、将軍の代替わりを祝う賀慶使を送り、中国・オランダ・朝鮮とともに公的通交秩序の形式を鎖国の中でも打ち立てており、まがりなりにも、東西の輸出入と文化交流が行われ、極東の国でもあり戦乱に巻き込まれる事なく、比較的安穏な二世紀を送ることが出来得たと思われる。


中小企業静岡(2002年 11月号 No.588)