同組合への就職は昭和四六年八月。日本火災静岡支店に勤務し、高度化団地建設直後の同組合と強固な関係を築くなど、独特の営業センスを発揮していた頃だった。
岐阜への転勤が決まり組合に挨拶へ出向いたとき、事務局長から自分の後任にと熱心な勧誘をうけた。岐阜に就いたあとも、連日電話で口説かれ、とうとう心を動かした。四○歳の夏のことだ。
「まさに、清水の舞台から飛び降りる心境。保険会社の給与は満足していたし、社内での役職も上がってこれからという時でした。理由? ひとつは家族かな。単身赴任ということもあって…」
当時、同組合は多種多様な事業を展開していた。木材の共同購入や共同受電、木材乾燥、上下水道、社員アパート、共同倉庫事業など。「いい時もそうでない時も経験した」というように、需要の減退や経営環境の変化により、役割を終えた共同事業を廃止しては、新たな事業を立ち上げてきた。「共同事業は、組合員ニーズの変化を見逃さず早く手を打つことが必要です」。ある事業で赤字が続けば、その事業を利用しない組合員からは不満の声が出る。そんな声がチラついた時が事業の潮時だという。
思い出に残るのは、昭和六一年の組合創立二○周年記念事業だ。「一年間企画をあたため、翌年準備をし、三年目で実行に移した。団地の従業員やその家族を交えた運動会、バレーボール大会、ソフトボール大会。組合で記念の宝くじも発行しましたから」。事業のフィナーレでは、全従業員を含む四○○人が御前崎のホテルを貸しきり、心おきなく美酒に酔った。
趣味は釣りと音楽。「この二つに関しては、話題に事欠くことはありません。そんなことで、老後の楽しみは『晴釣雨聴』です」。
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