特別寄稿




▲東海道五十三次:由井・薩 嶺

庶民に根づいた「お伊勢参り」

 シーボルトが滞在していた文政年間は平和が続き、爛熟期とも云え、庶民の暮らしも楽になり、宿駅の整備と治安の安定によって、人々は盛んに旅に出始めた。
 先日、NHK木曜日放映の「お江戸でござる」を偶然見てたいへん参考になったのであるが、杉浦日向子女史の時代考証によると文政十三年(一八三〇年)、一年間のお伊勢詣で旅行者の数はおよそ五百万人、人口の六分の一だと云われ、普通の旅籠一泊二食付きで二百文が相場で(もっとも採算が合わない女子の内職でも早朝から深夜まで厳しい条件ではあったが、一日二百文を得ている)、現在価格に換算すると五〜六千円程だと説明があり、なお逆算すると当時の日本の人口は三千万人位かと推測ができる。
 「お伊勢参り」は室町時代から行われてはいたが、それは近畿の庶民のことであり、関東・東北のような、遠方地域からの旅は江戸時代中期から。富士講・大山講・御岳講等があるが、人気も高く最大なものは伊勢講で、旅費もかかり「無尽」つまり一定の掛け金を出し、その金を籤で当てる講の積み立て方式をあみだし、多くの人々が旅行に出ることができた。ことに化政頃つまり十九世紀前半頃になると、老人よりも結婚前の若者を参加させて、見聞を深め貴重な経験と知識を身に付けさせて家業に励むよう、配慮もあってこそ、「伊勢参り、大神宮へもちょっと寄り」と川柳にもあるように、伊勢参りを口実にそのまま奈良や大阪に出て、四国の金毘羅様に参拝し、京都見物したり、芝居見物や美味いものを食べ歩き、二ヶ月以上に及ぶ気楽な旅をさせたに違いない。
 いつの時代でも庶民は多少の余裕ができれば、連れ立ってレジャーを楽しみ、「講」の主催者「御師」は旅を斡旋し、推薦旅館を使って、既にネットワークをもった旅行社の「ハシリ」まで存在したのであり、ツアーの費用を月々積み立て、一〜二週間の海外旅行をする現代の源流が、既に構築されていた訳である。
 幕末に近くなると、お蔭参り(抜け参り)柄杓一本で東海道を自分達の食べ物や路銀を道中で物乞いして、伊勢参りする輩も多く、ことに宿場の多い静岡県の場合、往時多くの抜け参りの男女への、施しの負担もあったに違いないが、温暖で比較的豊かであった土地柄でもあり、伊勢信仰に免じて容赦していたのかもしれない。
 やがて十五代将軍徳川慶喜によって幕府は解体し、一八六八年、明治維新となり、我国は近代化の道を進みはじめ、幾多の変遷を経て今日に至っている。
 昨年は東海道開道四百年。ここ静岡県は箱根の難所を越した三島宿から愛知県境、新居宿まで何と二十二の宿場が存在し、全行程の四十%以上を占めていた。
 当時、街道の往還には相当な体力と金と余裕、関西と関東の情報交換、更にビジネスチャンスが交差していたに違いない。

おわりに

 「温故知新」現在全く出口の見えないトンネルの中、我々中小企業は閉塞感で呻吟しているが、政策がない、ユーザーが悪い、銀行が傘を貸さない、中国製品にかなわない、と他人の所為にして、嘆いてばかりいても少しも進展しない。
 先人の様に足腰を鍛えて、西に東に箱根越え、大井川を渡り、地に足のついた歩き方で、雨風に恐れずに、総てにチャレンジし得意技を持ち、常に財務体質を強化して、あの会社、あの経営者が居れば安心、と云った存在感をアピールすることが、生残りを図る為にも今こそ必要ではないだろうか。

■参考及び引用文献
 季刊「静岡の文化」(旅人が見た東海道)
 季刊「駿河」駿河郷土史研究会編
 「江戸三百年」(江戸っ子の生態)
 「日本」シーボルト著


中小企業静岡(2002年 11月号 No.588)