特 集 
 「くみあい百景」 
 編集室便り 




覇者の論理

 この八月十五日、五九回目の終戦記念日を迎えた。 身をもって戦争を知る一人として、あの忌まわしい体験だけは子々孫々に向けて二度と体験させてはならないと切実に思う。
 東西冷戦が解けて久しい。ソビエト連邦がロシア連邦共和国に生まれ変わり、ベルリンの壁は外され東西ドイツの統一をみた。国連を基軸にして、社会も経済も共通認識の下に競い合い、地球規模で豊かで平和な時代を迎えて行かねばと、誰もが願ったはずである。
 事実、ヨーロッパ圏では、難産の末に通貨の統合が図られ、ユーロが誕生したのもその現れである。 しかし、状況は一転した。あのアメリカで起きた九・一一のテロ事件をきっかけに、世界平和に向けた国際協調体制は淡い夢となり、いっきに崩れ去った感がある。
 国際的テロ組織との対決はイラク戦争へと拡大し、戦争収束後の今も、復興に向けた根本的な解決をみていない。身近では、北朝鮮の核開発問題が拉致問題と絡み混迷を続け、古くて新しい問題の一つであるパレスチナ紛争なども平和への道が開けてこない。また、平和の祭典であるアテネ五輪の裏側では、NATOの全面支援で千六百億円ものテロ対策警備費が使われたという現実も、直視せねばなるまい。
「小異を捨てて大同につく」。―これは故周恩来元首相の、記憶に残る感動的な言葉である。しかし、中国で開催されたサッカー・アジアカップの試合では、日本チームに対する一斉のブーイングとやらに、私自身、やるせなさを禁じえない。
 思想や宗教、歴史観の違い、貧困と富裕。これらを積み重ねた何百・何千年もの歴史を前にした時、我々の経験や発想では決して及びもつかない厳然たる何かがそこにはあると考えざるをえない。
 いずれにせよ、覇者の論理が正義としてまかり通る世界政治の趨勢が、紛争やテロの一因となっていることは間違いない。我々は身近な諸活動においても、他山の石として心得ておかねばならない。

静岡県中小企業団体中央会・会長



中小企業静岡(2004年9月号 No.610)