富士の叫び
大企業だけでは、国家は存在しない

      静岡県中小企業団体中央会・会長 井上光一

かつて、すくなくともバブル以前までは、日本の政治家は二流だが、経営者は一流――国の内外を問わず、誰もがそう信じていた。
 ところがどうだ。ノンバンクや不動産からはじまった不祥事は、大銀行、生保、四大証券、しにせの百貨店、さらには財閥企業にいたるまで、信じられない異常な事態が、これでもかとうんざりするほど続く。
 さて、上場企業は、倒産して取引先の中小企業などに甚大な損害を与えても、社長や役員が私財を投げ出したという話は、未だ聞いたことがない。
 だが、中小企業では、個人保証をしているので当然のごとく家屋敷は処分され、破産に追いやられるケースが多い。
 経営責任とは、かくも厳しいものなのだ。
だからこそ、中小企業の経営者は、常に危機意識と緊張感をもって、一歩間違えれば、奈落の底に落ちることを覚悟で経営にあたっている。
 ところで、最近の世の中は、自由競争至上主義のなかで、力のあるものだけが、言いかえれば、大資本有利の体制が着々と固められている。
 それでいいのだろうか。私は反対だ。
 中小企業の存在は、自然環境に似ている。一度失われれば、蘇ることは難しい。例えば、大型店の進出によって、廃業に追い込まれた八百屋、パン屋、魚屋は、大型店が失敗し撤退しても、決して蘇ることはない。その結果、そこに住む人々は寂寥を感じ、不便を強いられる。
 これは一例に過ぎない。住み良い社会の構築には、それぞれの地域に密着した、多様な中小企業の存在が欠かせないことを、今こそ再認識すべき時である。

中小企業静岡(1997年12月号 No.529)